みなさんは「人生のどん底」を経験したことはありますか?
私は10年以上の間、脳脊髄液減少症という病と闘っています。
どんなに絶望の底を見ても負けないのは、自分の中にある2つの信念のおかげです。その信念が生んだターニングポイントを、私の体験と共にご紹介します。
悩みながらでも行動し続ける ~いばらの10年間~
私の人生のどん底は、原因不明の体調不良に苦しみ始めてから「脳脊髄液減少症」と診断されるまでの10年間です。
脳脊髄液減少症とは、髄液が漏出・減少することにより激しい頭痛、起立不耐、慢性疲労、自律神経症状などさまざまな症状が起きる病気。原因や治療法が未解明な部分が多く、「つらさが理解されない」「(立ち上がれず寝込んでばかりいるので)なまけ病と勘違いされる」というのも特徴です。1)
私の体調を崩したのは17歳です。どんなに調べても原因はわからず、返ってくるのは「病気ではない、自律神経が乱れているだけ」という言葉ばかり。巡った病院の数は50件以上、入院回数は6回。それでも尚、原因はわかりません。治療をしても、何も効きません。どんなに体調が悪くても、健康な人と同じ結果を求められてきた10年間。気づけば半寝たきりとなっていました。
脳脊髄液減少症の症状のひとつに、羞明感(しゅうめいかん)があります。夜に目を瞑っていても、眩しさのあまり身の置き所すらありません。テレビも携帯も見ることができません。
まさか平成生まれの私が暗闇の部屋の中、ろうそく1本で過ごすことになるなんて想像できたでしょうか。診断名が無かった当時の私は、どこに行っても得体の知れない患者でした。
行動が生んだ数々の出会い ~悩んでもいいから行動し続ける~
どんな時でも守り抜いた私の信念です。
体調が悪くて立ち上がれないのであれば、いまの自分にできることを見出す。動ける時間を見つけては食糧を調達し、病院を探す。誰にも理解されないのであれば伝え方を考え、理解しようと思ってもらえる人間になる。好き・嫌いにかかわらず、思いついたことは片端から実践しました。
一度は諦めかけた人生に、ついにターニングポイントが到来です。
日本でも数少ない自律神経専門の医師に出会い、眩しいろうそく生活を卒業することができました。その医師のひと言により、私の脳脊髄液減少症が発覚。現在私は、その医師の元で看護師をしています。
行動の連続が出会いを生み、どん底の経験が自分の糧となった10年間。悩みながらも、なにか小さな行動を起こし続ける。
その積み重ねが人生を好転させるターニングポイントに通じるでしょう。
どんな時でも「ほんの少しの気遣いとユーモア」を
悲劇のヒロインと化した私
脳脊髄液減少症という診断にたどり着くまでの私は、いつも後ろ向きでした。理解されない孤独と、体も心も自由の利かない屈辱の日々。自分の大切なものすべてを失った気分でした。
離れていった人は多く、家族とも疎遠になりました。大好きだったがん看護の仕事や当時の職場を失い、20代女性としての青春は無いも同然。報われない自分に、気づけば私は悲劇のヒロインとなっていました。
失って気づいた大切なこと
多くを失って初めて気づいたことが、「ほんの少しの気遣いとユーモア」の大切さです。
人々が去っていったのは、私自身の責任だと気づいたからです。自分ばかりが可哀そうだと思い込み、他者を思いやれなかった結果でした。
それ以降、心から辛く苦しいとき、私は頭の片隅で唱えます。
「つらい時は、いつも相手と半分こ。分け合った分だけ楽しい時間も忘れずに。最後は笑って吹き飛ばす!」
少し力が抜けてきませんか?どんなに自分が大変でも、相手も悩みを持つ人間です。100%ぶつけてしまうと相手は受け止めきれません。辛さを吐き出した分だけ笑えれば、お互いの心が軽くなります。
新たな信念を見つけた私は、今が一番自分らしいと感じています。そしてどん底を抜けた先に待っていたのは、良いことの連続です。
ある方から、「あなたは人徳がある」という言葉のプレゼントを頂きました。私には身に余る言葉。
しかし今までの苦労が報われたと思えたこの瞬間は、私の大切なターニングポイントとなりました。
どうぞ「ほんの少し」だけ、余裕を持ってみてください。相手への思いやりが人徳と人望を生み、自分をどん底から救ってくれることになるでしょう。
まとめ
「どん底」の時は皆、苦しく孤独です。しかし諦めなければ、必ず這い上がれる時がきます。
ピンチの時こそ、自分の信念や行動が背中を押してくれるのです。そして出会いを生み、仲間に救われることでしょう。
どうぞ自分を信じて進んでみてください。あがき続けたその先に、あなたの大切なターニングポイントが待っていますよ。
【参考文献】
1) 吉兼健一 著.篠永正道 監修.脳脊髄液減少症-「慢性疲労」「原因不明の病気」の正体はこれだ!.創風社出版,2008,185p